📡 聖殿情報

安重根「爲國獻身軍人本分(위국헌신군인본분)」1910年3月26日死刑執行日

🎼曠野(あらの)を過ぎて(日語,8分)


🎹Beyond the wilderness

(日本語,8分)



二代王:


曠野(あらの)の遠い森の中に入って、何もなく、曠野(あらの)に立っているね。その歌どうだったかね? 曠野(あらの)にいるね。主だけが私の助けとなり、主だけが私の光になって。主だけが私の友となるそこは曠野(あらの)。主がいなければ、ただの一日も生きることができない曠野(あらの)。


▼♪
なぜ闇の中に深き闇に
独りで捨てられたのか
私はなぜ寂しくなり
低くなり
頼りなくなったのか
曠野曠野にいる


나제 야미노 나카니 후카키야미니
히토리데 스테라레타노카
와타시와 나제 사비시크나리
히크크나리
타요리나크낫타노카
아라노 아라노니 이루


主だけ助けになり
主だけ光になり
主だけ友になれる曠野


슈다케 다스케니 나리
슈다케 히카리니 나리
슈다케 토모니 나레르 아라노


主を離れて
とても生きられない

曠野曠野


슈오하나레테
토테모 이키라레나이
아라노 아라노


主に用いられるように
清められるように
主に送られた所 曠野
御靈によって
生まれ変えられる
曠野曠野にいる


슈니 모치이라레르요오니
키요미라레르 요오니
슈니 오크라레타토코로 아라노
미타마니욧테
우마레카에라레르
아라노 아라노니 이르


心を明け渡して
華やかな夢も
主の手に捧げる
主の御旨が
我が主だけが
私に現れるように
曠野を通って


코코로오 아케와타시테
하나야카나 유메모
슈노테니 사사게르
슈노 미무네가
와가슈다케가
와타시니 아라와레르요오니
아라노오 토옷테
▲♪


二代王:


アボニムが靈界においても
ウリを守り見られ
驚く聖靈の役事をされて
熱い火を見せて下さり、


ウリ人生はすべてみんな
始めから底まで
すべてが特別に女性達、
特別に男性達が
アボニムを崇めれば崇めるほど、
皆さん、福を受けるように
なるでしょう。


アボニムを讃揚(チャニャン)
すればするほど
アボジ、アボジ、アボジ!
讃揚すれば、
ウリにアボニムは
熱い聖靈の役事を
見せて下さると信じます!


ウリは爆発的な
胸が張り裂ける
心情世界に
アボジ!アボジ!
チャンプモニム
億萬歳、億萬歳!
涙を流しながら
アボニムの驚く靈界の生を
見せて下さると信じます。


* * *


📝参考


✑荒野と曠野(あらの)


韓国の基督教や韓国語の原理講論では、「曠野(광야・クァンヤ)」という言葉を使う。その
言葉を直訳すれば、「曠野(あらの)」。「荒野」ではない。


韓國で使われる例:
미디안 광야
가나안 복귀를 위한 광야노정


日本語の「荒野」は韓国語では「황야・ファンヤ」。


▽韓國の辞書「광야(曠野)」
광야(曠野)는 텅 비고 아득히 넓은 들을 의미한다. 유사한 말로 황야(荒野)는 버려두어 거친 들판으로 개간되지 않은 황량한 벌판을 말한다.
▽翻訳
曠野(クァンヤ)とは、空いてとても広い原を意味する。 荒野は、捨てられた荒い畑で開墾されていない荒涼とした草原を言う。


したがって、砂漠をさまよった路程は、「捨てられた畑」ではなく、「空いてとても広い」所なので、「曠野」とするべき。


ただし、発音は韓国語の「曠野(クァンヤ)」は日本語の「あらの」よりも「こうや」の方が近いので、日本語は「荒野(路程)」でも私はいいと思う。


また、日本のキリスト教会や日本の聖書では、「あらの」「あれの」を使っているので、「一般には『あらの』が正しい。しかし、日本の統一教会では『荒野(こうや)』と言う」…と認識しながら、「荒野(こうや)路程」、「王は韓国から追い出されて荒野(こうや)に行かれた」と言うのがいいだろう。


「あらの」を「こうや」と間違えて使うようになった理由は、日本の原理講師達や牧会者がそう言うからであり、さらにおそらく、統一教会の初期において、日本を開拓された西川先生やアボニムが「荒野(こうや)路程」という言葉を使ったと推測される。


✑wilderness


「荒野」も「曠野」も英語は「wilderness」。発音に注意
wild…[ワイルド] 野生の
wilderness…[ウィルダネス] 荒野


別の韓国語辞書による「曠野」の意味
텅 비고 아득하게 너른 들…からっぽで果てしなく広い地
an extensive plain…広大な平原