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安重根「爲國獻身軍人本分(위국헌신군인본분)」1910年3月26日死刑執行日

🐯妍雅任「예수님은 社會主義者였나?」2020.1.21



🐯イエスニムは社会主義者だったか?
(日本語字幕, 10分半)
https://youtu.be/NeBVdpmd_l0


時:2020年1月21日
場:ライオン クィ-ンズ TV
所:天一宮


妍雅任(ヨナニム):


皆さん、今日(こんにち)は。ライオン クィ-ンズの妍雅(ヨナ)です。今日(きょう)は、「イエスニム(イエス様)は社会主義者だったか」という題目で話して見ます。プレガ- ユニバシティのビデオである、「ワズ ジ-ザス ソ-シャリスト?」のビデオを説明します。


私達がイエスニムを考えてみるとき、


・謙遜であられ
・すべての人を愛し
・貧しい人を助ける
・豆一つでもそれを分け与えながら食べられる、


そのような仁慈(じんじ=慈愛のある)な姿を考えます。だったら、その姿はすなわちすべてを平等に分けてみんながいい暮らしをする社会主義の姿ではないかと錯覚しやすいのです。


それを代弁する内容を、2016年のアメリカのパックス社がした統計で見る事が出来ます。イエスニムの教えが
・資本主義に近いか
・社会主義に近いか
という質問に24%のアメリカ市民がイエスニムの教えが社会主義に近いと答えました。では、本当にイエスニムは社会主義者であったでしょうか?


イエスニムが社会主義か、そうでないかと言う前に、まず社会主義の概念について皆さんと整理をしてみたいと思います。社会主義の概念の第一は、すべての経済活動を中央政府が掌握する事です。二番目の社会主義の特徴は、少数エリ-ト達がすべての中央の権力を持っており、中央政府が持っている国のすべての資産を再分配するというのです。だったら、そのような社会主義の特徴がそのままイエスニムの教えにもあるでしょうか。いっしょにプレガ- ユニバシティの映像を見ながら一度考えてみましょう。


一番目。イエスニムは富者(ふしゃ)を憎まなかった。私達がよく聞く言葉の中で、イエスニムが言われたのは、「富者が天国に行くのは、らくだが針の穴を通過するよりも難しい」と、聞いてます。


しかし、この言葉は、イエスニムが富者を憎むというよりは、お金を拝するようになれば、妬(ねた)みの心が生じるようになり、お金に侍って神に侍らないようになる…という意味だと見る事が出来ます。従って、この例え話は、イエスニムが富者を憎んでいると見る事は難しいです。


他の話を見てみましょう。イエスニムが聖殿に入って、両替商のテ-ブルをひっくり返した。これはすなわち現代社会の銀行家達を憎まれる、市場経済を憎まれるイエスニムの姿である。…とこのように言う人達もいます。


しかし、そうではないでしょう。イエスニムは、祈禱する所で、このような人達が来て、物や動物を売り買いする事を嫌われたのです。ですから、これも、イエスニムが富者を憎まれたという例と見る事は難しいです。


社会主義では、富者は貧しい人達からお金を奪って富者になった。金持ちは悪い奴らだと糾弾し、税金を取って金持ちを無くすべき…というのが社会主義・共産主義です。しかし、それとは違って、イエスニムは富者を憎みませんでした。


では、二番目を見ます。イエスニムはなぜ社会主義者ではなかったでしょうか。すなわち、イエスニムは市場経済の原則を大変 重要に考えたからです。


イエスニムが言われた例え話です。タラントに関する話です。ある主人が外国に旅行に行く時に、3人の僕(しもべ)を呼びます。この3人にそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントをやりながら、「お前達はこれをよく管理しろ」と言います。そして、主人が旅行に行って帰って来ました。一番目の僕(しもべ)は10タラントを主人に上げながら、「このように私は2倍に増やしました」と言いました。二番目の僕は4タラントを持って来て、「私は2倍に増やしました」と言いました。その主人は、『満足だ、善良で、忠実な僕よ。おまえはわずかなものにも忠実だった。私はおまえに多くのものを任せよう。主の喜びの中に入りなさい。』(マタイ25章23節)…と称賛されました。


しかし、最後の三番目の僕は、『私は恐かったので、あなたのタラントを地に隠しておきました。ご覧ください。あなたの物をお取り下さい。』(マタイ25章25節)私達が普通に考えれば、最後の僕も、失ったのではないので、良かったんじゃないかと思えます。


しかし、イエスニムが言われるには、主人がこのように言ったという事です。『悪い怠け者の僕め。お前は利息も受けるあの銀行家たちの所に置いておくべきだったのに。』(マタイ25章26節)


これは理解が難しいですが、すなわち市場経済の原理から考えれば大変、簡単です。自己の資本をより大きく増やせば称賛を受け、より多くの仕事が与えられるというのです。機会がある時に、その機会を利用し、より多くの結果を生む事が恵沢である。これがすなわち市場経済の原理だと見る事が出来ます。


二番目の例は、葡萄畑の働き人の話です。市場経済の原理をおもしろく話しています。葡萄畑の働き人達が収穫の為、朝から熱心に働きます。しかし、その日の内に収穫の仕事を終えられないとわかった主人は、働き人をもっと募集しないといけないと考えます。しかし、陽が暗くなるので、人達は働きたくないのです。それで、主人は、私達はあなた達に一日中働いた人達と同じ報酬を与えると話します。集まった人達が熱心に働きます。


そしたら、一日中働く人が来て、こう言います。『これらの最後の人たちが働いたのは、一時だけではないですか。それなのに、あなたは暑い一日を重い物を持ち運んでいた私達と彼らと同じにするのですか。』(マタイ20章12節)


主人は言います。『私はあなたに悪いことはしていない。あなたは私と合意したではないか。最後の人達にもあなたと同じ様にしてあげたいのだ。私の思いのとおりにするのは、あなたの目には悪いのか。』(マタイ20章13節)


即ち、私有財産を認定し、需要と供給を認定し、契約の正当性を認定しています。一日中働いた人の立場からは、一時間だけ働いた人と同じ賃金を与えられるのは不当だと考えるのですが、この主人は自分の財産で自分の思う通りに、働き人達との契約によって需要がある時に、供給側がそれに応じてする事、すなわちこれを見れば、市場経済の論理を正確に説明していると見る事が出来ます。


三番目です。イエスニムは政府が強制的に富を再分配する事を否認されました。群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」(ルカによる福音書12章13節)イエスはその人に言われた。「だれが私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」(ルカによる福音書12章14節)そして、「貧心(タンシム=貪欲)に用心して、警戒していなさい。」と言われました。「貧心(タンシム=貪欲)は十戒の十条にも出て来る言葉です。すなわち、「貧心(タンシム)を禁じよ=隣人の財産を欲してはならない」という言葉です。


また、ある人はこう言います。初期基督教を見れば、すべての物を共同所有して使い、分け与えて、みんなが平等に暮らしていた。それは社会主義により近い姿ではないのか。…という方もおられます。


果たしてそうでしょうか。それは私がさっきも話したように、自分達が願って自発的にそのような共同所有して共同で分けて持つ事を決定したのです。政府が税金という名目で強制で奪って行くのではないのです。


イエスは言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。(ルカによる福音書6章20節)


父なる神の御前で清く汚れのない宗教は、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分を清く守る事です。(ヤコブ1章26節)


イエスはそのように言われたじゃないか…と言われる方もいるかもしれません。勿論、イエスニムはそのように言われたでしょう。しかし、イエスニムは、「良きサマリア人(びと)」のように、自分が同情して助けて上げたい時に助けて上げなさいと言ったのです。政府が税金を取り立てて政治家達が公約を出して当選する為に、貧しい人を助けようと福祉の話をしているのではありません。


ある統計によれば、政府が不幸な人を助けるという名目で集めた税金の75%は官僚の為に使われると言います。それはどういう意味かと言うと、もし私が政府に不幸な人を助けるという名目で1万ウォンを出したなら、7500ウォンは政府官僚の為に使われ、不幸な人には2500ウォンが届くという話ですだから、私がもし、不幸な人を助けようと個人で直接助けて上げるならその不幸な人は1万ウォンを受けるのに、政府を通じて助ければ不幸な人は2500ウォンしか受け取れないという事です。


だったら、不幸な人に本当に助けになる事は何でしょうか?富の再分配、無償福祉を叫び、土地制度の廃止を言う人達をイエスニムは果たして支持されるでしょうか?


聖書が教える意味は大変明白です。聖書にはイエスニムが社会主義者であるという証拠はまったくありません。しかし、イエスニムが市場経済、資本主義をより支持されていたという証拠は溢れるほどです。


ビデオの最後はこのように終わります。「イエスニムは社会主義者にはなれない。なぜなら、イエスニムは政府を愛するのではなくすなわち人を愛されたからである」。


きょうも映像を視聴して下さり、ありがとうございます。ウィメン ウィズ ストレングス エン オ-ナ-.(力と栄誉ある女性)ライオン クィ-ンズの妍雅(ヨナ)でした。