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安重根「爲國獻身軍人本分(위국헌신군인본분)」1910年3月26日死刑執行日

✡Leviticus Overview(레위記槪觀)


✡レビティカス(レビ記)概観

(日本語音声+日本語字幕,7分)


👶아이들을 傳導하고 養育

(日本語音声+日本語字幕,3分)


The Book of Leviticus
レビ記


聖書の始まりを思い出してみよう。 人は神の臨在の中にいた。でも人間は追放された。 反逆したからだ。


でも、神は人間と関係を持たれようと、ひとつの家族を選び、彼らを用いて世界を神に復帰させる事にした。


神の臨在がイスラエルの幕屋に降りてきた。


しかし、強力すぎてモーセは幕屋の中に入れない。祭司長も不適切な入り方をすると死ぬ。神の臨在は良いものなのになぜ、危険か?


こう考えてみよう。神の臨在は太陽に似ている。エネルギーそのもの、良いものだ。命あるもの、腐ったものが それに触れると破壊されてしまう。つまり、レビ記で「聖なる」という言葉は神の力強い臨在を表している。それは太陽のように 「良い」けれど「危険」だ。


つまりレビ記には腐った状態にあるイスラエルが、神の良さと共存する方法が書かれてる。 破壊されずに。


レビ記にはその方法が3つ書かれている。


まず1つめは、儀式。
2つめは、祭司職。
3つめは、清めに関する律法。


レビ記は7つに分かれている。それぞれの方法が2回づつ出てくる。
儀式、祭司職、清めの律法。


まず「儀式」には 動物のいけにえが出てくる。
レビ記の冒頭は、いけにえを捧げる際の細かな規定で始まる。
いくつかは神に感謝する方法、
いくつかは「ごめんなさい」という意味でいけにえを捧げる。


レビ記の最後は更に儀式が登場する。 聖日と祭りに関する。全て祝いの式だ。神がイスラエルの民を救い出し他民族から引き離したという歴史を伝える。


次の方法は祭司長に関係がある話だ。


神の臨在(する幕屋)に入るのはとても危険だ。
そこで神は臨在に入る代表者として祭司長を選んだ。
ここでは祭司長に任命される方法が書かれている。
ここでは祭司長に求められる 生活基準について書かれてる。
祭司長は神の臨在の近くで働くからだ。


3つめの方法は清めに関する律法だ。ここでの関心ごとは自分が「きれい」か「きたない」 かを知ることだ。別の言い方は 「清い」か「汚れ」ているかだ。


ここを理解するために知るべきなのは、祭司長が清いなら神の臨在の近くに行くことができる。汚れているなら、行くことはできない。


イスラエルの民にとって、自分が清い状態にあるか 知っておくことは重要だった。


まず最初に清い動物と 汚れた動物のリストが書かれてる。
どこに住む動物かによって別けられる。
陸に住んでいるのか
海なのか、空中なのか。


聖書には、なぜある動物は汚れていて触ったり食べたりすると汚れるのか説明があまりない。ただ明確なのは、汚れた動物を避けることは イスラエルと他の民族を分け、彼らに「聖なる神」は生活の全てに影響を与えるのだと思い出させる。


はっきりしている事は、汚れた動物を避けることは 神が生活の全てに影響を与える事を知り、イスラエルと他の民族を分ける事になる。食べ物に至るまで。


食物規定の後、色々な法律が続く。皮膚病、屍体を触ること、体液をどうすべきか。全ては、イスラエルの民に 関係する「命」と「死」で神聖だ。命の創造主は神だから。


儀式的に汚れたからといって 間違っているとか罪人になるわけじゃない。何日か待ち、風呂に入り、犠牲の捧げ物を すればまた清くなれる。


いけないのは、汚れた状態の時に神の臨在(する幕屋)に入ることだ。


この箇所にはさらに清めの律法がある。イスラエルの 道徳的行動についてだ。
社会的正義、健康的関係、誠意ある性的関係に関する律法だ。


この律法に従うことでイスラエルの民は 道徳的に清い民となり神の臨在の近くで生きることができる。


セクシャル インテグリティ(性的純潔さ)
ヘルシー リレイションシップ(健康的関係)
ソーシャル ジャスティス(社会的正義)


これが3つの方法だ。この書の中心は重要な儀式「贖いの日」だ。


イスラエルは大きな民族になった。同時に多くの罪が犯され 誰も気づかず、そのままにされていた。


そこで一年に一度 祭司は2ひきのヤギを選び、一匹を殺し、
その血を神の臨在に持っていく。
その血は、イスラエルの民の罪を贖う象徴だ。


犠牲の意味はつぎの章(レビ記16章)に説明がある。


神が動物の血にはいのちがあると語る箇所だ。
つまり、ヤギのいのちは代わりに捧げられる。
イスラエルの罪に対する神の裁きを代わりに受けて。
(ヤギのいのちはイスラエルの罪に対する神の裁きの代わりだ)


祭司は残ったもう一匹のヤギに手をのせ
イスラエルの全ての民を告白する。
まるでヤギに罪を負わせるように。


そしてヤギは荒野に逃がされる。永遠にね。
スケープゴート(罪を負わされた人)とも言う。
現代の「スケープゴート」はそれが語源だ。


「贖いの日」は、神が恵みによりイスラエルの罪を 取り除くことを力強く象徴する儀式だ。
犠牲は一般的には野蛮な行為だ。
でも思い出してほしい。
古代世界では、神々の好意を得るため 犠牲が捧げられた。
そんな時代において、イスラエルの【神】は 全く別の存在だとわかる。


神は人間の罪に対し怒っても 決して独裁的ではない。
神は人々を愛しているので、イスラエルの民が許されたと 確信できるように明確な道を与えた。だから罪を犯す状態にいたとしても、神の臨在の近くで安全に住めるようになった。


(神はイスラエルに罪が許される明確な道を与え自信を与えた。
罪を犯したとしても、神は近くで臨在され、イスラエルを守られた)


レビ記はそういう意味で、この時代において革命的だ。


でもイスラエルはまだ荒野の真ん中のシナイ山にいる。住む土地が必要だ。
神がアブラハムに約束した土地への道のりが書かれてるのが次の書(民数記)だ。


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